生きている人はどんな人も、

純粋さ、優しさ、喜びのようなの部分と

残酷さ、憎しみ、怒りのようなの部分、

その両方を含有しているんじゃないかと
私は思っています。

があるから、があり、
があるから、がある。

どちらかしか持たないということは
ありえない。

私達は
いわゆるテロ行為という言われることを
している人達の中に

私達自身が持つ
残酷さや残虐性、怒りや憎しみを
見せられているのかもしれない。

私達自身が
持っているとは認めたくない
の部分を。

もしかしたら、
今、残酷さや残虐性を露わにしてる人たちは

自分達も持っているということを忘れている
純粋さ、優しさを
後藤さんのような方の中に
実は見ていたんじゃないかとも思う。

今、それを自覚したら
自分達の活動が根底から崩れてしまうような
の部分を。

私達人間は
自分自身が含有する

その両方を直視できるようになることで、

もっと
お互いの持つを認めて
お互いを理解できるようになれないかな。

国籍に関係なく
人を見つめ、その気持ちを伝えようとしてきた
後藤さんの活動の意味が
ここで憎しみの連鎖のゆえに止まることがないように、

私達ひとりひとりが
を自覚して
自分自身を見つめ
お互いを見つめることを始められればいいな・・・・・と、

心から願います。

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