第二次世界大戦中を母親として生きた祖母が
話してくれたことを思い出した。
松山市の空襲の中、
小さな娘達3人を連れて逃げ惑ったこと。
(私の父は、終戦の翌年に生まれた)
義弟(祖母の夫である私の祖父の弟)は
兵隊として戦地で生き延びたけれど、
日本に戻る船が沈んで亡くなったこと。
遠い海でその船が沈んだであろう時刻に
家の庭で大きな不思議な音を聞いたこと。
息子を亡くしたお姑さんや知り合いが
悲しみのあまり
完全には立ち直ることはなかったこと。
子供だった私は、
祖母の話を
遠い遠い昔のこと、
今はもう起こらないことのように聞いていた。
すべて、終わったこと、
つらい『思い出』なのだと。
でも、本当は、
第二次世界大戦後も、
ずっと、ずっと、ずっと、
世界のいろんな場所で
同じことが起きている。
今、この瞬間も。
世界から注目される場所でも、
あたりまえのように忘れられてしまう場所でも。
私には、
国と国との関係の難しさは
完全にはわからない。
どの国に関しても
知らないことがたくさんあるのだろう。
だけど、
ご大層な大義名分で
人を殺し、生活を壊すことが、
長い目で見てなんの役にも立たないことは
わかる。
戦争は
国対国、派閥対派閥で
起こるように見えるけれど、
本当は
人間である私達ひとりひとりの中に、
私達の内側に、
戦争が、戦いがあるのだと
私は思う。
自分の中の怒りや悲しみ。
自分のふがいなさ。
自分への不信感。
自分への呪い。
自分を自分のまま受け入れられない、
どうしようもない絶望感。
自分をよしとできない葛藤という戦い、
自分で自分を責める(攻める)戦いを
自分で解決できず、
一人だけではなく
たくさんの『自分』達が
その苦しさを外側に向けた時に、
外側を変えれば
自分は変われる、
自分は救われる、
自分は自分でいられるようになる、と
勘違いした時に、
それが
戦争になるんじゃないかと思う。
そして、その戦争で
ひとりひとりが
心身に受けた傷が癒やされないまま、
次の戦争が起こる。
国々として、世界として、
いろんな努力が必要だろうと思う。
今、私が思っていることが
直近の危機になんの役にも立たないだろうとは
思うけれど、
私達は
ひとりひとりの在り方を、
自分の在り方を、
根本から、丁寧に、深く、
見直す時が来ているんじゃないだろうか。
自分達の深い深い内側を
真正面から見つめる覚悟が、
自分の内側の戦争を終わらせる覚悟が、
私達にはあるだろうか。
ひとりひとりにその覚悟ができた時から、
世界は
真の変化の方向へ
行き始めるんじゃないだろうか。